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前田義昭という名の写真人の独白

こんなコンペの審査はきいたことがない —スミオのひとりごと213 No.313— 

 審査の経緯についての会見があった。
 そこで“原案”なるものが初めて明らかになった。みると凡庸なデザインでよくこれで並みいる作品をおさえて最高作になったのかまず不思議な気がした。Tに新しさがなく、また以前から指摘してきた日の丸の入れ方がまったくよくないと思った。この“原案”は商標登録されたなかに似たものがあったそうだが、それならその時点でなぜボツにしなかったのか。もしボクが審査員なら当然ボツで他の二候補作から選ぶ。(会見では残った二作が発表されなかったのはなぜか) コンペではそれが普通の成り行きだと思う。絶対に言っておきたいのは選ばれた作品、それはすなわち審査員のレベルでもあるということだ。
 ところが不可解なことに作品を修正させる手に出た。多分永井が主導したのだと思う。ここでほかの審査員から異論がでなかったのだろうか。ある記事では一人だけ反対したという。審査メンバーのなかでこれがいえるのは細谷巌か浅葉克己のどちらかだと思う。ドングリ頭の女の子をはじめ他の審査員では仮にそう思っても追随するしかないだろう。だからこそ審査員は皆同程度の格をもった人物でなければならないのだ。(これも前に書いた) 多勢に無勢で反対した審査員は地団駄を踏んだことだろう。審査員のメンバー構成について発言した記者に対して、組織委員会の人はそれらの人は出品する側にまわったと言った。それならすべての出品者の名前だけでも発表すべきだと思う。このあたりにも消化不良の感をぬぐえない。
 そして佐野に修正させたのが発表された案だという。これもワンプロセスあって左下に三角部があるもの(円を強くみせるためにはこうだと図で以前書いた) を経てそれをとったものが最終案になったとのことだ。“原案”と最終案を較べると三角部が直線から曲線になり位置も移動したことが判る。デザインがわかる人ならこれはまったく別の作品になったと思うだろう。(前にも書いたが通常の発注仕事ならこれはよくある) だから最終案は“原案”とは違ったまったく別の作品になってしまった。黙々と従った佐野にはプライドがないのか。(パクリ屋にあるわけがない) 今回の会見で、これら一連の審査員の行為は不正を臆面もなく告白しているのだ。まず佐野作品ありきで、こんなことをやられたら他の出品者は出しに使われたようなものでたまったものではない。名前を伏せて審査したというが、審査員に佐野の人脈が多くいることを考えたら何の意味もない。(100m競走で君だけ90mのタイムでいいよと言われたようなもの) コンペという競技方式は公平で透明性がなければならないのに、今回の件で信用を揺るがし私物化した審査員の責任は大きい。もし盗作問題がおこらなかったら闇に葬られていただろう。
「原案はまったく似ていなかった」といった永井の発言はなんの意味もない。だったら“原案”でやればよい。オリビエ・ドビもそれなら却下するといっているとのことだ。「劇場のロゴとは発想や造詣が違い、グラフィック・デザイナーから見ると全く違う」この発言も例えて言ってみれば、エベレストに別ルートから登頂したからこれは別だといっているようなもので、初登頂した人には敵わない。今一度いうがどんな理屈をこねても結果として似ているものはだめだということだ。(仮に偶然似たとしても) それがこの世界の常識だ。永井といえばデザイナーの大家なのだから、著作権を重視し熟知していなければならない立場なのにこれらの発言をしたならまことに恥ずかしいかぎりだ。ボクは日本人としてこんな連中に絶対に肩をもちたくない。オリビエ・ドビよ徹底的に戦えといいたい。

2015.8.29

    













by y-lu | 2015-08-29 11:34 | 日常雑感 | Comments(0)