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前田義昭という名の写真人の独白

スミオのひとりごと.95 No.155    

時の重み

 ひとつのこだわりや既成概念をもっている人が、なにかのきっかけでものの見方のヒントを得、パッと視界がひらけて価値観が変わることがある。
 有名大学に入らなければ将来がないと堅く信じ込んでいた人が、受験に失敗し打ちひしがれる時がある。例えばそんな時、自分に多大な影響を与えた人が高校すら出ていない経歴を知ったりすることで学歴が総てかと今一度思案し、その考えを打ち破ることができたりする。
 若い時分にはそのような発想の転換がなかなか難しい。しかし、歳をとると自然にそういう考えができるようになる。それが時というものだ。後に振り返ればちっぽけなことなのだが、どうしてあの時はあんなに煩悶したのだろうと思う。それは取りも直さず人生の経験が足りないからなのだが、渦中にいる当人には分かる由もない。人生経験豊富な人の意見を取り入れるキャパシティもない。それが若さというものではあるが。
 だからボクは若死だけはいけないと思っている。自分においてもそれだけは何としても避けたかった。桜宮高校の生徒が自殺したが、後年あの世からどうしてあんなことをしたのだろうと思っても取り返しがつかない。あの時点で彼にとっての選択肢はこのまま我慢して在校するか、死かの二つしかなかったのだろう。退学を決断するか、あるいはそれを覚悟で顧問に対して殴り込みを決行するという選択はなかったのだろうか。
 ボクなら間違いなく殴り込む。しかしよく考えてみると、その顧問は殴り込みに来そうなやつには何十発も殴るまでの暴行は加えないと思う。反撃されるリスクのないことをよんだうえでの行為であろう。「こういう人間は最低だ」、と傍で言うのは簡単だが何の解決策にもならないし、当人はそれに耳をかさないだろう。
 何十発も殴ったら殴る方の手も相当痛くなる。そこにはもう憎悪しかない。そもそも体罰というのは、言って聞かせられない幼年期に用いるものだ。つまり基本的には保護者である親の愛情が裏打ちされていてこそやれるものであって、他人がやるものではない。この事件においてこれを用いるマスコミの言葉使いがまず間違っている。
 ここに面白いヒントがある。あるテレビで“体罰”を議論していたが、以前教師をしていたという評論家がいみじくも言った。現役の頃やはり殴っていたらしいが、ある女の子から「もっと殴れ」と返されたらしい。その瞬間から一発も殴れなくなったと言い、その後いっさい殴ることを止めたと告白していた。咄嗟に出たのかもしれないが、この女の子は相手の心理を知り尽くし、大人顔負けの戦術を労したのだ。殴る方に少しでも人間性が残っていたら、誰だってこの教師のようになるだろう。この少女は相手を諌める言葉をもっていたのだ。
 死者に鞭打つつもりはないが、自殺した少年に別の選択ができなかったのかと悔やまれる。

2013.2.15
by y-lu | 2013-02-15 23:46 | 日常雑感 | Comments(0)